深い思考を邪魔するもの(3)
<そもそも議論の目的は何なのか>
議論というものは,自然に発生するわけではない。議論を持ちかけるのは通常,現状を変更させたい側である。人を殺してはいけない理由を説明できないからといって人を殺してもいいことになるとは誰も思わないので,こんな議論を吹っかける人はいない。しかし地方創生とかTPPなどで現状変更をしようと思って議論を吹っかけた場合にこの状態になると,議論を吹っかけられた側は面倒になって「はいはい,わかったわかった」と言うかもしれない。相手が反論しないのは必ずしも「自分のほうの論理が正しいから」とは限らない。論理的思考力を扱うサイトの多くはこのことを軽視し,「こうすれば相手を論破できる」ということだけに注目しすぎている。むしろ,なぜ論理的に正しいのに実現されないのか,というところまで思考することも可能であり,これは「正義とは何か」というのと同様に,相当に深い思考といえる。
議論は,現状変更したい側が始める。
<その対策は本当に効果を持つのか>
地方の活性化や人口減少への対策は現代日本の大きな課題となっていて,新聞やテレビなどのマス・メディアでは,都会から地方にUターン・Iターンした若者がしばしば紹介される。「多くの若者が仕事さえあれば本当は地方に住みたがっている」と伝えようとしていると思われる。ところで,「これらの内容は本当に,地方に住んでもいいと思っている『普通の人』の背中を押す効果があるのか」という分析をするのも有意義なのではないか。よく見られる地方移住紹介はむしろ,「この人は特別な人で,自分には無理」と「普通の人」に思わせてしまう影響もあるのではないか,という分析はないのか。「起業家や芸術家より一般の会社員を取り上げたほうがいいのでは?」とつっこみたいところである。
さらに悪いことに,「芸術家や起業家が都会に行っても成功するのはごく一部の人だけだよ」などと言ってしまうと(言わないまでも,地方から都会への人口移動を愉快に思っていない人の心の中にこの認識が存在するとすれば),「地方から都会への移動に対しては冷たい視線で見るのに,逆の移動はバラ色に描くダブルスタンダード」という見方もされかねない。いずれも,地方活性化や人口増加を進めようとする人から見ればひいきの引き倒しになりかねない論法である。
「今は都会から地方への移住がトレンドになっているのに,それを邪魔しているものがある」と言いたいように見えるが,ここには,論理を除外した「空気」の力で人口を移動させようという願望が見えるようである。普通の人が地方に住むためには何が必要か,というのを分析するのも,深い思考として大いに有意義ではないか。
「ひいきの引き倒し」は自分の意図と反対の結果をもたらす。
さらに悪いことに,「芸術家や起業家が都会に行っても成功するのはごく一部の人だけだよ」などと言ってしまうと(言わないまでも,地方から都会への人口移動を愉快に思っていない人の心の中にこの認識が存在するとすれば),「地方から都会への移動に対しては冷たい視線で見るのに,逆の移動はバラ色に描くダブルスタンダード」という見方もされかねない。いずれも,地方活性化や人口増加を進めようとする人から見ればひいきの引き倒しになりかねない論法である。
「今は都会から地方への移住がトレンドになっているのに,それを邪魔しているものがある」と言いたいように見えるが,ここには,論理を除外した「空気」の力で人口を移動させようという願望が見えるようである。普通の人が地方に住むためには何が必要か,というのを分析するのも,深い思考として大いに有意義ではないか。
<働き方・生き方を考える契機に>
仮に地方に移住する人が特別な存在だったとしても,働き方・生き方そのものを見直すことと合せて考えれば,相当深い思考になる。新聞やテレビ番組の制作者には,その意図があるのかもしれない。しかしそれが一般市民にも共有されているかは疑問で,「都会と地方が対等でないこと(=都会にあるものが地方にないのがおかしい,など)」への問題意識が先に立ち,わかりやすい対立構造にしてしまうことが多いようである。「都会と地方のどちらが正しいか」という問いには終わりがなく,しかも,それを追求することはあまり生産的とはいえない問いと言うべきだろう。
実際は,都会から人を呼び込もうとする地方Aと地方Bとの競争という面が小さくないはずである。地方ばかりではない。「田舎は閉鎖的」と揶揄する都会も同じである。「都会対地方」というわかりやすい図式には,味方がたくさんいるのだと自分を納得させることで,「自分を傷つけなくてすむ」という大きなバイアスがかかっていることを思い出す必要がある。
都会対地方という図式に注目しすぎると,思考はかえって浅くなる。
最初の問いに戻る。「人口減少時代において地方の活性化・人口増加をはかるにはどうすればよいか」というのがテーマだった。ここでは「地方の活性化・人口増加は必要ない」という選択肢は,最初から除外してあるが,もしもその選択肢がありうるとしたらどのような根拠や論理に基づくかを考えるのも面白い。たとえば「人口が減少しても活性化できる」「人口が増加している地方に学ぶ(あそことは違う,という,出来ない理由を探さない)」「いや,活性化しないほうが,こんないいことがある」など,とっぴとも思えることも,最初から除外しないほうがいい。
研究は,方法の正しさも大切だが,研究する価値が重要である。現在では,価値は,無理につくり出そうとされることも多く,それがしばしば逆効果になっている。しかしそれでもさらに何かを主張し,多くの人が認めることで価値は生まれる。あえて「価値がない」と言うことで「そうでもないぞ」という意見を引き出せるのである。
たとえば東京の西部にある高尾山は標高が高いわけでもなく簡単に行きにくいわけでもない。高い山,簡単には登れない山が価値が高い,という考えからすれば,たいした山ではないのである。しかし,手軽に安全に誰でも登れる,というところに価値を見いだされ,人気のある山となっている。同じような条件の山は全国各地にあるはずだが,東京の人口の多さのおかげで,決定的な差がつく。「高尾山より高いのに」「高尾山より登りやすいのに」と言ったところで,人口は動かせない。となれば,「低い」「登りにくい」というところに価値を見いだすのが一つの方法である。価値観を固定しないことである。
対立する相手のエネルギーも利用できる
さあ,常識にとらわれない,自分の考えを展開してみよう。
「人口減少時代において地方の活性化・人口増加をはかるにはどうすればよいか」
第4回では,卒業研究になりそうな研究テーマを,ICEモデルで分類してみる。
実際は,都会から人を呼び込もうとする地方Aと地方Bとの競争という面が小さくないはずである。地方ばかりではない。「田舎は閉鎖的」と揶揄する都会も同じである。「都会対地方」というわかりやすい図式には,味方がたくさんいるのだと自分を納得させることで,「自分を傷つけなくてすむ」という大きなバイアスがかかっていることを思い出す必要がある。
都会対地方という図式に注目しすぎると,思考はかえって浅くなる。
最初の問いに戻る。「人口減少時代において地方の活性化・人口増加をはかるにはどうすればよいか」というのがテーマだった。ここでは「地方の活性化・人口増加は必要ない」という選択肢は,最初から除外してあるが,もしもその選択肢がありうるとしたらどのような根拠や論理に基づくかを考えるのも面白い。たとえば「人口が減少しても活性化できる」「人口が増加している地方に学ぶ(あそことは違う,という,出来ない理由を探さない)」「いや,活性化しないほうが,こんないいことがある」など,とっぴとも思えることも,最初から除外しないほうがいい。
研究は,方法の正しさも大切だが,研究する価値が重要である。現在では,価値は,無理につくり出そうとされることも多く,それがしばしば逆効果になっている。しかしそれでもさらに何かを主張し,多くの人が認めることで価値は生まれる。あえて「価値がない」と言うことで「そうでもないぞ」という意見を引き出せるのである。
たとえば東京の西部にある高尾山は標高が高いわけでもなく簡単に行きにくいわけでもない。高い山,簡単には登れない山が価値が高い,という考えからすれば,たいした山ではないのである。しかし,手軽に安全に誰でも登れる,というところに価値を見いだされ,人気のある山となっている。同じような条件の山は全国各地にあるはずだが,東京の人口の多さのおかげで,決定的な差がつく。「高尾山より高いのに」「高尾山より登りやすいのに」と言ったところで,人口は動かせない。となれば,「低い」「登りにくい」というところに価値を見いだすのが一つの方法である。価値観を固定しないことである。
対立する相手のエネルギーも利用できる
さあ,常識にとらわれない,自分の考えを展開してみよう。
「人口減少時代において地方の活性化・人口増加をはかるにはどうすればよいか」
第4回では,卒業研究になりそうな研究テーマを,ICEモデルで分類してみる。
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