アクティブ・ラーニングのブレーキ (1)  (2)  (3)  (4)  (5)

アクティブ・ラーニングのブレーキ(5)風土

  前回は,「授業以外のことを第一に考える教員」を取り上げた。そのような教員が多数ではないとしても,授業がメインというのがすべての教員に共通しているのか,いささか疑問もある。本音では「部活動指導をそのままで授業のほうを減らしてほしい」と思っている教員もいるのではないか。また高校教員の場合とくに,本当は大学で研究者になりたいと思っている人もいる。(大学と小中学校との共同研究に比べ,大学と高校との共同研究が明らかに少ないことについても,大学教員に対する高校教員の微妙な距離感も関係していると思われる。)この場合も,教員の意識が授業第一ではない可能性がある。
 授業に限らず,教員の仕事において「自分流にやりたい」という気持ちはさまざまな場面で現れる。たとえば,データ処理に用いるエクセルのシートなどを,誰かが作ったものを共通利用するのでなく,「自分が作りたい」と考えるのもその例だし,ICT機器も,使い慣れた(自分の感覚に合う)ものを使いたいとのこだわりを持つ人もいる。こだわりを持つのは必ずしも悪いわけではないが,「そもそも何のために」という視点(それは学習者中心の視点でもある)に立てば,こだわりの意味を考える必要がある。
 生徒の成果が上がることが教育の目標のはずだが,自分のやりがいのほうを重視しているか,または,教師がやりがいを感じていれば生徒にも必ずプラスと思っているとすれば,どうだろうか。「教師が面白いと思わない授業を生徒が面白いと思うはずがない(だから,教師自身が面白いと思える授業をつくりましょう)」と言うことがある。これは論理的には「生徒が面白いと思う授業は,教師も面白いと思う」ということの対偶(すなわち,一方が真なら他方も真)の関係にある。それは,「教師が面白いと思えば生徒は必ず面白いと思う」というのと同じではないのに,それが同じだと勘違いして,あるいは生徒の成果よりも自分の満足を優先する発想もあるのではないか。
 これは長く働く(残業が多い)のを美徳とする発想に通じ,日本の風土(教員に限らない)が影響しているかもしれない。変わらないからこそ風土,という見方もできる。しかし,風土だから絶対に変わらないかというと,家族葬のひろがりなど葬儀のあり方が急激に変化したのと同様に,変わり得る。
 「長い時間働くのが美徳」という思想は「勉強はつらいもの」という考えとも対応している。つまり,アクティブ・ラーニング型ではない授業スタイルへのノスタルジーにつながっている。「長く学校にいない教師がよい教師」という評価が広がるなら,結果的に,アクティブ・ラーニングが広がることになるだろうが,「アクティブ・ラーニング型授業の準備をするために夜遅くまで学校にいる」というのが従来型の熱心な教師の姿である。「長く働く教師が優秀なのではない」ということを証明するには「早く帰る教師がサボっているわけではない」ということも同時に証明しなくてはならないことになる。そして,「アクティブ・ラーニング型授業が広がらないと,本当に困ったことになる」ことも証明を迫られるだろう。本当に,大きな変化になりそうだ。風土は変わるのだろうか。

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