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アクティブ・ラーニングのブレーキ(1)嫉妬心と承認欲求

 自分が慣れ親しんだ方法への固執がある教員は少なくない。(というと理論的裏付けがあるように聞こえるが,本当のところは,生徒が教師を超えていくのが愉快でないという,学習者に対する嫉妬心もあると思われる。)こういう人は,従来型の一斉講義を過大評価し,ALを過小評価する。アクティブ・ラーニングと関連する「ルーブリック」「パフォーマンス課題」「キー・コンピテンシー」等の用語にも抵抗を示す向きは多いが,「どうして何でもカタカナなのか」という一見もっともに聞こえる指摘も,本質のところでは,自分が心地よく感じる教育観が否定されているという反発による部分が大きいように思われる。
 これまでやってきたどんな活動でも意味がゼロということはないはずで,だから,これまでのやり方を変えまいとする理屈も立たないわけではない。けれどもこれは,「相手が100点でないからダメ」とけちをつけているに過ぎず,「自分が何点であるか」を意図的に隠しているというずるさがある。
  教師が答えをすべて知っているとか,相手の答えられない質問をしてたじたじとさせ悦に入る,という光景は,ネット時代の今に復活させるわけにいかない。それは,教師が絶対的権威を持っていて,それを絶対視するかあるいは逆に権威を崩して自分が優位に立とうとしているか,いずれにしても,フラットな志向とは相容れないものである;。むしろ,教師も思いつかなかった視点を学習者が発見するのは教育の成果だ,と思えることが大切である。どこまでわかっていて,どこからがわからないのかを,学習者自身によって言語化させることが教師の腕の見せ所で,これができれば,学習者は主体的に学習を進められるのである。
  一方で,ALに積極的であるように見えて,実のところは「ICTで教材を作ることが最終目的」「ICTを使って自分の撮りためた写真をやたらに見せたい」と思っている教師もいる。これは,能動的な学習を進めているわけではなく,知識詰め込み・画像詰め込みのためにタブレットを使いたくてたまらない一方通行の授業だろう。こういう人が「タブレットや電子黒板に十分な予算を付けない教育行政がけしからん」と批判しても,ALは進まない。ICTを使いこなすことや,どうやって一人1台を実現するかとか,さらにはiOSとアンドロイドのどちらが適しているかになると,ALの本質からは相当に外れてくる。ALを進める応援団だと勘違いして応援をあてにすると,とんだひいきの引き倒しになるだろう。
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