アクティブ・ラーニングのブレーキ (1)  (2)  (3)  (4)  (5)

アクティブ・ラーニングのブレーキ(3)ダブルバインド

  グローバル化やALは,本来は英語に限った話ではないが,語学という「活動」を伴う教科として,英語教師が中心となることを期待されている面がある。これは一方で,英語教師をダブルバインドに縛り付ける働きにもなっているのではないかと危惧する。
 ダブルバインドとは,相反するメッセージを異なる方法で伝えることで相手を二重に拘束するという意味である。たとえば,母親が子供に対して,口では優しく「おいで」と言葉をかけながら,子供が近づくと手で払いのけるような場合がダブルバインドの例である。優しい言葉をかけられて近づかなければ愛してもらえず,かといって,近づいても愛してもらえない,という状態になる。これは子供を精神的に痛めつけることになる。あるいは,上司が部下に対して「がんばれよ」と励ましながら,その言い方は,とても成功を望んでいると思えないような冷淡なものである場合も,ダブルバインドである。これはパワー・ハラスメントになりうるだろう。
 英語教育において教師はたいてい生徒に「間違ってもいいから,発音が下手でもいいから,遠慮せずにどんどん話しかけてごらん」と言う。ところが教師自身は,ネイティブ・スピーカーを理想とした発音で流暢に発音することで,「こういうのがいいのだ」というメッセージを発している。生徒は,自信がなくて話さないことは駄目なことだと思い,同時に,間違うことや発音が下手なことが駄目だと思う。ダブルバインドである。
 しかし教師もまた,「単語を何でも知っていて流暢に話せるのが素晴らしいことだ」と心の中で思いながら,「発音が下手でもいいから生徒がどんどん話すようにさせるのがよい教師」という具合にダブルバインド「された」状態にあるともいえる。「文法や英文和訳や和文英訳の入試問題をすらすら解けるのがよい教師」と考えられていた時代には,生徒に対しても「それが素晴らしいこと」と心から伝えていただろうが,現在ではそうはいかない。教師のストレスは大きくなっていると言うべきだろう。
 ALが本当に広がっていくならば,その過程で「優秀な英語教師」の定義も問い直されることになるのだろうか。いや,本当は英語に限った話ではない。どの教科だって,「しゃべりすぎない,知っていることを全部教えようとしない教師の評価を上げていこう」とするはずである。ALが広がるというのは,そういうことでもある。
 英語に限らず教師は,それまでの時代の価値観,育った価値観のもとで教師から「いい子」と評価されて,教師になっている。そのような人がパラダイム変換を口にすれば,後の時代の人から見れば,嘘くさいと思われたり,ダブルバインドととられたりする可能性は,どの教科の教師にもありうる。「従来型の教師=既得権益者」と考えれば,ALの広がりに対し抵抗があるのは不思議でもなんでもないわけだが,「それでもALを進めようとすれば何が必要なのか。」は,考える意味があるだろう。

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