これができればまた一段深い思考になるだろうが,これを「勘違い」と表現することに対しての反発もあるだろう。かつて「限界集落」という言葉がつくられたころに,地方の希望を奪う概念,という反発があったのと同様である。この状況は現在でも変わっていない。「限界集落」が存在する自治体でも,消滅が予想される集落の数を公表していなかったり,把握していないと(表向きには)主張するところもある。集落に差をつけることができないのであろう。
けれど,自分が反発する意見であっても,「そういう考え方もありうる」と認めたうえでないと,深く思考することにはならない。それを例えば,「都会と地方と,いったいどちらの立場に立つのか,お前は!」と教師が言ってしまうと,本当は味方になってくれるかもしれない人を敵に回してしまう失敗が起こる。これは,「思考の深さの程度は教師の裁量の範囲内」と言っているのと同じことだからである。
けれど,自分が反発する意見であっても,「そういう考え方もありうる」と認めたうえでないと,深く思考することにはならない。それを例えば,「都会と地方と,いったいどちらの立場に立つのか,お前は!」と教師が言ってしまうと,本当は味方になってくれるかもしれない人を敵に回してしまう失敗が起こる。これは,「思考の深さの程度は教師の裁量の範囲内」と言っているのと同じことだからである。