地域的経済統合
隣接する国々が,国際分業と市場拡大をめざして組織する経済圏のことである。例として,EU,ASEAN,NAFTA,かつてのCOMECONなどがある。戦前のブロック経済と異なる点は,域外に対しての関税も徐々に引き下げていこうとしている(世界全体としても貿易の自由化を進めようとしている)ことである。域内関税の撤廃・自由化をすすめる点は,共通している。
ECからEUへ
西ヨーロッパでは,第2次世界大戦後の復興をめざし,いくつかの分野で国家の枠を超えた経済組織をつくっていた。ECSC,EEC,EURATOMがそれである。これらが1967年に統合されてEC(ヨーロッパ共同体)となった。当初の加盟国は6か国だった(大陸中心で,イギリスは加盟していなかった)が,しだいに加盟国が増えた。1979年には,欧州通貨制度(EMS)が発足。これは,のちの通貨統合の基礎となるものである。EMSでは,EC域内では固定相場制,域外に対しては変動相場制をとった。なお,EMS発足当時は将来の統一通貨にはECU(エキュー)という名称が予定されていたが,1995年にEURO(ユーロ)に変更された。
1992年,欧州連合条約(マーストリヒト条約)締結。EUが発足した1993年には,域内の関税・非関税障壁を撤廃する市場統合が実現した。これにより,国としては別々でも経済圏としては国内と同条件の巨大市場(人口3.5億人)が出現したのである。さらに1997年には,新欧州連合条約(アムステルダム条約)が結ばれた。これは,マーストリヒト条約以後の変化に対応するためのものである。マーストリヒト条約では,安全保障などの意思決定は全会一致となっていたが,これを多数決制に変更しようとした。イギリスは多数決制に反発,結局,原則は全会一致としながらも,棄権国は義務を免れるというかたちで妥協した。ドイツ,フランスなど大陸諸国と,海を隔てた(しかもアメリカと特別な関係にある)イギリスの,安全保障についての立場の違いを示すできごとといえよう。
南北問題
南北問題とは,発展途上国と先進国との間の,経済格差の問題である。経済格差は,工業化の程度の違いや国民所得の違いというかたちで存在するが,これは他のさまざまな条件に影響する。たとえば発展途上国の幼児死亡率が非常に高いとか,教育が十分でない,などである。それらのことが,さらに経済発展を難しくするという,悪循環となる。
もともと発展途上国の経済発展が十分でないのは,かつて先進国が植民地支配し自国(宗主国)に都合のよい経済構造をつくってきたということが背景にある。そのため発展途上国側は,先進国からの援助や貿易拡大を強く求めてきた。1964年には,第1回の国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれ,その「プレビッシュ報告」で,「援助より貿易を(発展途上国の自立促進を)」ということが言われた。しかし発展途上国の経済発展がなかなか進まないなかで,1972年の第3回会議では,「援助も貿易も」とされた。途上国側は,政府開発援助(ODA)を先進国のGNPの0.7%とするよう求めているが,現実は0.3%程度である。
第一次石油危機後の1974年には,新国際経済秩序(NIEO)の樹立が宣言された。これは,資源に対する保有国の主権を確立したり,発展途上国に不利な交易条件の改善,多国籍企業の活動に対する規制・監視などを決めたものである。
1980年代には累積債務問題が表面化した。これは工業化のため多額の資金を借り入れたラテンアメリカ諸国(ブラジルやメキシコ)や,外国政府からの借款に依存してきたアフリカ諸国が,返すべき借金を返せなくなる(債務不履行,デフォルトともいう)危機に陥ったものである。これらの国々は,債務返済繰り延べ(リスケジュール)や債務の軽減などの措置を受ける一方,経済構造改善のための市場経済化をすすめているが,経済危機からの脱出は容易ではない。この過程で,発展途上国どうしの結束は弱まり,一次産品価格の下落により交易条件は悪化するなど,先進国との貧富の格差は拡大した。
日米貿易摩擦
1960年代末以降,激しくなった。1960年代末には,繊維製品が日本からアメリカへ大量に輸出されたことが問題となっていた。70年代には鉄鋼,カラーテレビ,工作機械,80年代には自動車,半導体,VTRが問題となった。この結果アメリカ企業でVTRを生産するところはなくなってしまったし,フォードの大量生産システム以来アメリカ人の最も誇りとする自動車産業で日本が勝ってしまうことが,アメリカのプライドをひどく傷つけたようだ。このころ,アメリカの自動車産業労働者が日本製自動車を1台用意してハンマーでめちゃめちゃに壊すという映像が,テレビで報じられたものである。
1988年,アメリカはスーパー301条とよばれる通商法を発動し,輸入制限をおこなった。不公正な取引をする国を指定し,改善されなければ報復措置をとるというものである。もちろん,どんなことが不公正なのかは,アメリカが決める。1989年から90年にかけておこなわれた日米構造協議では,アメリカの要求に対し,日本が次のような経済改革を約束した。
内外価格差の是正
大規模小売店舗法の見直し
10年間(1991年から2000年)で430兆円の公共投資
排他的取引慣行の撤廃
1993年からは日米包括経済協議がおこなわれ,アメリカは貿易に数値目標を設定するよう要求したが,日本は管理貿易だとして反発した。アメリカは自由貿易主義という印象があるが,必ずしもそうではなく,自国が弱い部分では保護貿易的な政策をとろうとする例であろう。また,農業であれ自動車産業であれ,産業界からの圧力が政治家の行動に大きく影響していることも見逃せない。また,貿易赤字の背景には,アメリカ企業が多く多国籍企業化していることもある。たとえばアメリカ企業の○○社が設立した○○ジャパンという日本法人が生産した商品を日本からアメリカに輸出すれば,それはアメリカの輸入となるわけである。国内で生産するより儲かるから,という理由で海外生産にシフトする例は日本でも多いが,国内産業の空洞化につながる行動である。この場合,「海外生産は低価格品で国内生産は高級品」とか,「国内では研究開発やデザインなど高付加価値の業務に集中する」などの戦略がとられる。