4.日本経済の諸問題

(3)日本経済の諸問題

b.農業

 第2次世界大戦直後には,工業が壊滅状態だったのに対し,農業では農地改革が2度にわたって実施され,農民のほとんどが自作農になった。その意味では,農民の生産意欲は大きくなったはずだが,それからさらに10年余り過ぎた高度経済成長期には,工業が重化学工業化していったのに対し農業では生産性が低下してしまった。これは,農地改革の結果ほとんどの農家が1ヘクタール(10000平方メートル)以下の小規模経営になったことによる。こうして1960年代には,農業と工業の生産性や所得格差が拡大した。これを,「二重構造」という。つまり,農業では食っていけないという状態になったのである。そのため,農村地帯では新たに農業に終業する若者は激減し,彼らは集団就職などで都市に住むようになった。
 農業人口の減少は,次のような具合である。1960年には33パーセントだったものが,1988年には7パーセントとなった。また,副業的農家が増加した。現在の農家の分類は,右下の図のようになっている。

 まず販売農家とは,耕地面積が30アール(3000平方メートル,0.3ヘクタール)以上または年間の農産物販売額が50万円以上の農家のこと。それより規模が小さい農家を自給的農家という。
 販売農家の内訳は,次のとおりである。
主業農家とは,農業所得が主で,年間60日以上農業に従事する者(65歳未満)がいる農家。準主業農家とは,農外所得が主で,年間60日以上農業に従事する者(65歳未満)がいる農家。
副業的農家とは,年間60日以上農業に従事する者(65歳未満)がいない農家。

 つまり,農家経営として最も本格的なのは主業農家である。ただしその割合は17パーセントに過ぎない。準主業が20パーセント,副業的が40パーセント,自給的農家が23パーセントである。

農家の分類はこう変わった!(農業だけで生活していける農家はごくわずか)
専業農家

兼業農家
  第一種兼業農家
  第二種兼業農家
販売農家
  主業農家
  準主業農家
  副業的農家

自給的農家

日本農業の展開
 戦前から戦後にかけて,日本の農業の重点は,「もっとコメを増産する」ことだった。農地改革も八郎潟干拓も,コメの安定供給のためと言ってよい。そのため,戦争中から「食糧管理制度」がとられた。これは,政府が農家からコメを高く買い上げ,消費者には安く売り渡す制度だった。コメを高く買い上げることは,農家の所得保障の意味を持つ。消費者に安く売ることは,主食の価格安定のためだった。
 ところが,戦後の時期には生産者・消費者両方に好都合だったこの制度が,1960年代からは矛盾を呈する。生産者は,コメは政府が確実に買い取ってくれるため豊作貧乏になる心配がないので,安心して増産できる。戦前にはどんなに多くても年間1000万トンを超えることはなかったコメの生産量は,1967年には1445万トンを記録した。いっぽう消費者は,戦後の食糧難の時代にはコメのご飯が食べられるだけで大満足だったのだが,生活に余裕ができると,パンその他の多様な食糧を求めるようになった。そのため,せっかくコメが大量に安定生産されるようになった時代に,消費者のコメ離れが進んだのである。
 1961年の農業基本法では,農家の経営規模拡大と,食生活の洋風化に対応した畜産・果樹生産増をめざした。が,食糧管理制度に守られたコメからの転換は思うようには進まず,コメ余りが深刻になった。そのため1970年からは,コメの生産調整がはじまった。これを減反(げんたん)という。田んぼを持つ農家がコメを作らずにいてくれれば政府が補助金を出す,というものである。また,以前は生産されたコメは全量を政府が買い上げていたが,政府を通さずに農協が出荷できる「自主流通米」と呼ばれる流通ルートも作られた。政府米よりは高く売れるおいしいコメを認めて,生産意欲を高めようとしたのである。「コシヒカリ」「ササニシキ」などのブランドを持つコメは,自主流通米として政府米(標準価格米)よりも高い値段で売られていった。

コメの関税化
 1990年代には,コメをめぐってさらに変動が起きる。貿易の自由化を進めるGATT(ガット)の,ウルグアイ・ラウンドと呼ばれる交渉のなかで,日本政府はそれまで拒否していた外国からのコメの輸入を,段階的に認めたのである。資源のない日本は,電気製品や自動車の輸出に頼っている。自国の輸出では自由貿易の利益を受けながら,競争力の弱い農産物は輸入拒否しつづける,というわけにはいかなくなった。すでに1980年代には,牛肉やオレンジの輸入が自由化されていたが,ついに主食のコメも外国からの輸入をせざるを得なくなったのである。
 当初は,国内消費量の一部(最初は4パーセントで,毎年0.8パーセントずつ増やして6年目に8パーセントとなる)を輸入する義務を負った。このことを,「ミニマム=アクセス」という。1995年から始まり,2000年に再交渉を行うことになっていた。2000年には,ミニマム=アクセスをさらに増やすか,一定の関税をかければ量の制限なしに輸入できるようにする(関税化)かを選ぶことになっていたが,結局政府は1999年からコメを関税化した。なお1995年には新食糧法が施行され,食糧管理制度は廃止されている。

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