英国の学校教育−−1993年・秋

(30)最高の夜

 PEAR TREE SCHOOLからいったんアランのアパートに帰り,夜になって二人でプレストンに向かいました。今日は,カーヒル・ハイスクールの教職員の食事会なのです。場所はプレストンの中心部にあるフランス料理のビストロで,単に食事会と聞いてきたのですが,正確に言うと「ボージョレ・ヌーボーを飲む会」だったのです。確かこの日が解禁日だったはずで,こういうことは日本でしかやらないのかと思ったら,英国でもやるんですね。 

 ワインはもちろん,料理も最高でした。まずオードブルがハムやパテなどたくさん出され,スープは野菜・魚・えびのクリーム和えの3種類もあり,メインはチキンでした。デザートもアイスクリームなど3種類。食事の間ずっと,「イエスタディ」など1960年代のレコードが流れ,懐かしい雰囲気でした。後日アランに払った代金は12.50ポンドでしたが,いくらなんでもこれは安すぎます。どうやら私の分は半額に割引してくれたようです。

 しかし,本当にすごかったのは,食事のあとでした。夜9時半を過ぎた頃,テーブルクロスをさっさと片づけてしまったので「どうしてかな」と思っていると,店内にいた別のグループ(サッカーチームらしかった)の人たちが椅子の上に上がり,踊りだしたのです。あれれと思っていると次にはテーブルに上がりました。道理で,テーブルクロスを片づけるはずです。
 カーヒルのテーブルでも,まず体育の先生が椅子の上で踊りだしました。見ていると,女の先生が「あなたも踊りなさいよ」というような仕草をしたので,迷ったのですが思いきって椅子の上で踊り始めました。そのうちにみんな踊り始め,地理のトレーシー・ジョーンズ先生などはテーブルの上で踊っていましたし,いつも難しい顔をしているウィルソン先生も(床の上でしたけど)身体を揺らしていました。そのうちに店の中は,ほとんどの客がテーブルや椅子や床に立って踊っているという,いわゆるイケイケ状態と化したのです。一人の先生などは,翌日学校の廊下ですれ違ったときも踊る格好をしていました。
 なお,踊りが終わって気づいたのですが,テーブルの上に立つのに靴を脱いでいたのは私だけだったのは忘れられません。

 英国ではいろいろなことに驚き,感動しました。もちろん学校内でも大いに勉強させてもらいましたが,このフランス料理の夜のことが一番強烈な印象です。これだけでも英国に来てよかったと思ったくらいです。

 翌19日はカーヒル・ハイスクールの校内で写真を撮らせてもらい(それまで私が校内で全く写真を撮らないので,アランはとても不思議がっていました),最初のホストファミリーだったオリバー先生にもあいさつをしました。レポートもなんとか仕上がり,土曜日の夜はアランのアパートで彼のピアノにあわせて声がかれるほど歌いました。彼も私も好きなアンドリュー・ロイド・ウェバー(「キャッツ」や「オペラ座の怪人」で知られる)の作品とか,「蛍の光」とか「埴生の宿」のようなイギリス生まれの日本の愛唱歌です。私は気持ちが高ぶって,「ビルマの竪琴」の話までしてしまいました。イギリスには日本の捕虜となった元軍人もいるのに,感傷的すぎたかも知れません。

 さて,出発は日曜日の朝です。その日,アランはブラスバンドのコンクールのリハーサルのために先にアパートを出て行き,私は鍵を郵便受けに入れて出発するという,なんだか味気ない別れの朝となりました。イギリスは日本より別れもさっぱりしていたし,手紙のやりとりもそう頻繁ではありません(でも,阪神大震災の直後にゴードン先生から「何かできることはないか」と手紙をもらったのには感激でした)が,英国で出会った人たちは,大切な友人になりました。 

<帰国してから>

 日本の英語教育については「文法偏重で会話軽視」などとも言われますが,私は「学校で習った英語も無駄じゃないな」と感じました。もちろんラジオ講座や英会話教室も大切ですが,専門的な内容(たとえば学校教育)について話すには,その分野の単語も知っておく必要がありますから,地道な勉強は決して無駄にはなりません。
 また,学校英語で知識としてのみ教えられているような表現,たとえば付加疑問文が,実によく使われていたのは印象的でした。「Cold, isn't it?(寒いね)」とか,「It's a nice shop, isn't it? (素敵なお店ですね)」というぐあいに,付加疑問文というのは会話をなめらかにする潤滑油だと思います。こういう表現が,照れずに自然に出てくるのが「英会話」なのでしょうね。

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